本記事は、食品業界の複数の公開事例をもとに再構成したモデルケースです。特定の実在企業の事例ではありません。
会社の前提
加工食品メーカーA社(従業員1,200名、国内工場4拠点)。Scope1・2の算定は3年前から実施済み。Scope3は金額ベースの推計で開示を始めたところ、カテゴリ1(原材料調達)が全体の約8割を占めることが判明(食品業ではよくある構成です。カテゴリ別分析参照)。大口顧客である小売チェーンからの削減要請もあり、Cat.1の精度向上=一次データ取得に踏み出しました。体制はサステナビリティ推進室の専任1名+兼任2名。予算も人員も潤沢とは言えない、日本の中堅メーカーとして標準的な構えです。ここに購買部門がどう加わり、限られた体制で1年目をどう回し切ったかが、この事例の本筋です。
1年目の時系列 — 月単位で何をしたか
| 時期 | フェーズ | 実施内容 |
|---|---|---|
| 4月 | キックオフ | 推進室が経営会議で計画を提案。「1年目は10社・Scope1・2実績のみ」という控えめな目標で承認を取得。購買部長を共同オーナーに設定 |
| 5月 | 社内設計 | 購買部門と方針合意(取引評価に使わない、依頼は購買連名)。回答様式・想定問答・受領データの反映方法(売上按分)を設計 |
| 6月 | 対象選定 | 金額×原単位で並べ替え、「推計排出量が大きい×関係が深い×協力が見込める」の3条件で10社を選定。購買の担当バイヤーが各社の窓口・関係性を補足 |
| 7月 | 依頼 | 依頼の5原則に沿い、購買連名で依頼状を送付。定例商談のある先はバイヤーが口頭で事前に一言添えた |
| 8月 | 回収・フォロー | 期限までの回答は5社。リマインド(「未算定との回答でも可」を再明示)で3社追加。残る2社はバイヤー経由の電話で回答に到達 |
| 9〜10月 | 反映 | 受領データを検算(単位・年度・Scope2基準の確認)し、売上按分でCat.1に反映。一次/二次の区別を台帳に記録 |
| 11月 | 還元 | 回答10社へ礼状と結果概要を送付。算定中の3社向けに算定手順の勉強会を開催 |
| 12月〜2月 | 締めと開示準備 | 年度算定に組み込み、顧客(小売チェーン)への回答資料に「一次データ取得を開始済み」と記載 |
| 3月 | 振り返り | 1年目の総括と2年目計画を経営会議に報告 |
依頼から反映まで実質8か月。準備(4〜6月)に3か月かけたのがこのスケジュールの特徴です。準備を1か月に圧縮して7月に送ることも可能でしたが、想定問答なしで送っていたら、後述の社内の火種が本当に燃えていたはずです。
最初の10社をどう選んだか
- 調達金額の上位から機械的に選ばず、「排出量推計が大きい×関係が深い×協力が見込める」の3条件で10社を選定
- 推計排出量では、金額は小さくても原単位の大きい原材料(油脂・乳製品・包材)のサプライヤーが上位に入った — 金額ベース推計の並びとは顔ぶれが変わる
- 初回は依頼の5原則に沿い、会社全体のScope1・2実績のみを依頼
社内の抵抗と、どう突破したか
最大の壁はサプライヤーではなく社内でした。3つの抵抗と突破の実際です。
抵抗1: 購買部門の「取引関係を壊すな」
当初、購買側は「価格交渉の最中に余計な依頼を挟みたくない」と強い難色を示しました。突破口は2つ。(1)「取引評価に使わない」方針を文書化し、サプライヤーへの説明責任を購買が負わなくて済む形にしたこと。(2)小売チェーンからA社への削減要請の実物を見せ、「同じ要請がいずれ当社からサプライヤーに行く。先に丁寧な形で始める方が関係は守られる」と、購買の論理(関係維持)で語り直したことです。最終的に購買部長が共同オーナーに就き、依頼状は連名になりました。
抵抗2: 経営層の「それで数字は良くなるのか」
「一次データにしても排出量は減らないのでは」という問いには、正面から「1年目は数字は動かない。得られるのは削減余地の地図と顧客への回答力」と答え、目標を「10社・回収7割」という工数の読める形に落としました。成果を排出量の増減で約束しなかったことが、後の評価を守りました。
抵抗3: 現場の「担当が回らない」
専任1名では10社のフォローが限界です。バイヤー5名に「自分の担当先の回答状況だけ見る」という最小の役割を割り当て、推進室は様式・問答集・勉強会資料の整備に徹しました。負荷を分散するのではなく、役割を薄く切って配るのが機能しました。
購買部門との役割分担
| 担当 | 役割 |
|---|---|
| サステナビリティ推進室 | 対象選定の分析、回答様式・想定問答の作成、受領データの検算と算定への反映、勉強会の企画 |
| 購買部門(バイヤー) | 依頼前の口頭での一言、未回答先への電話フォロー、サプライヤーからの質問の一次受け(問答集ベース) |
| 購買部長 | 方針文書の承認、依頼状への連名、社内外への説明の後ろ盾 |
「データの中身は推進室、関係の窓口は購買」という線引きです。回収の決め手は結局バイヤーの電話一本であり、この分担なしに回収率8割はなかった、が関係者の一致した見方です。
1年目に起きたこと
| 結果 | 社数 | その後の対応 |
|---|---|---|
| 算定済み・データ提供 | 4社 | 売上按分でCat.1に反映。定期共有を合意 |
| 算定中・翌年提供予定 | 3社 | 算定手順書を共有し、勉強会を実施 |
| 未算定・対応困難 | 3社 | 二次データ(原単位推計)を継続。関係は維持 |
受領データの検算 — 反映前の4チェック
回収した数字をそのまま按分に使うと事故が起きます。A社が反映前に行った確認は次の4点です。
- 単位 — t-CO2eかkg-CO2eか。桁が3つずれた回答が実際に1社ありました
- 年度 — 相手の会計年度と自社の算定年度のずれを台帳に記録。1年ずれたまま按分すると前年比較が崩れます
- Scope2の基準 — ロケーション基準かマーケット基準か(2つの基準参照)。混在すると按分結果の比較可能性が失われるため、どちらで受領したかを必ず記録
- 範囲 — 単体か連結か、当社向け製品の製造拠点が含まれるか。連結全体の数字を単体売上で按分すると過大計上になります
疑義があれば必ず確認の連絡を入れました。「数字を疑う連絡」は角が立ちそうですが、「大切に使うための確認」と伝えれば、むしろ真剣さが伝わり関係はプラスに働いたとのことです。
工数とコストの実際(目安)
| フェーズ | 主担当 | 工数の目安 |
|---|---|---|
| 社内設計・様式作成(4〜6月) | 推進室 | 専任1名の約3割稼働×3か月 |
| 依頼・回収・フォロー(7〜8月) | 推進室+バイヤー5名 | 推進室2割稼働、バイヤーは1社あたり数時間 |
| 検算・反映(9〜10月) | 推進室 | 専任1名の約5割稼働×2か月 |
| 還元・勉強会(11月) | 推進室 | 資料作成含め約10人日 |
外部コンサルは使わず、追加の金銭コストは実質ゼロ(勉強会の会場もオンライン)。ただしこれは対象10社に絞ったからで、これが50社なら専任1名では回らなかった、というのが担当者の実感です。工数の詳細な考え方はコストか投資かも参照してください。
数字はどう変わったか
1年目に一次データへ置き換えられたのはCat.1の約2割。全体の数字は微減(推計の保守的な原単位が実測より高かったため)でしたが、本当の成果は数字の増減ではなく、(1)サプライヤー別に削減余地が見える化されたこと、(2)顧客への回答で「一次データ取得を開始済み」と言えるようになったことでした。なお、置き換えで数字が動いた分は、前年比較の説明で「算定方法の変更による差」と注記し、削減実績と混同しない形で開示しました(一次データと二次データ参照)。
勉強会で何を話したか
11月に開催した算定中3社向けの勉強会(オンライン90分)の構成は、(1)A社自身が3年前にScope1・2算定でつまずいた点の共有、(2)燃料・電力の使用量からの具体的な計算手順(最初の算定手順と同じ流れ)、(3)質疑、というものでした。教材はA社が社内で実際に使った手順書をほぼそのまま流用しています。参加した3社からは「同業の実物の手順が一番参考になる」との反応で、うち1社は年度内にScope1・2の算定に着手しました。完成された研修より、自社の失敗込みの実録の方が動かす力がある、というのが担当者の学びです。
担当者の振り返り
- 「10社で十分だった。100社に薄く依頼するより、10社と深くやって仕組みを作る方が先」
- 「未算定の取引先を責めない。3年前の自社も同じだったと伝えると空気が変わる」
- 「社内の購買部門を最初に巻き込むべきだった。4月の提案前に半年かけて根回しした方が、5月の方針合意はもっと速かった」
2年目の計画
2年目(今年度)は「広げる」と「深める」を分けて計画しています。
- 広げる: 対象を10社→25社へ — 1年目の様式・問答集・購買連名の型をそのまま再利用。新規15社は昨年の3条件で選定し、追加工数は初年度の半分以下を見込む(様式と体制が既にあるため)
- 深める: 提供済み4社のうち2社と品目別データへ — 会社全体の按分値から、主要原材料の製品別原単位の提供へ一歩進める。相手の負担が跳ね上がるため、共同の削減検討(省エネ・輸送効率化)とセットで持ちかける
- 「算定中」3社の刈り取り — 昨年「算定中」だった3社は勉強会の継続と期初の早めの声かけで、今年度の提供を見込む
- 台帳の整備 — 一次データの受領履歴・按分方法・年度をExcel台帳で管理してきたが、対象25社+品目別データで限界が見えるため、システム化の判断基準に照らした検討を年度後半に開始
- 未算定3社は焦らない — 今年も同じ軽い依頼を続け、算定支援の提案は相手の温度が上がるまで待つ
ポイント: 一次データ取得の1年目の現実的な到達点は「主要サプライヤーの2割」。数字の精度より、収集の仕組み(様式・問答集・購買との分担)と関係づくりが1年目の成果物。2年目は同じ型の再利用で対象を広げつつ、深掘りは少数と。準備3か月は遠回りに見えて最短ルート。